西洋でカレンダーが使われだしたのは、今から5000年ほど前だという。
カレンダー、つまり暦によって人間は今まで暮らしてきた。
今では生活のすべてが、その暦に支配されていると言っていい。
当たり前のことだけれど。 では、5000年前の日本列島はどうだったのだろう。
時は、縄文時代中期。
八ヶ岳山麓では、縄文のビーナスが誕生し、
仮面の女神がシャーマンの手伝いをしながら、人々の祈りをその身に受けていた。
また、新潟では火焔土器が作られ、炎の文化が大切にされていた。
ここ日本列島には暦の感覚が生まれていなかったのではないか。
暦ということは、「時間」ということなのだが、
そんなものを気にすることのない人々の営みが、縄文時代の中期にあったのではないか。
だから、あの豊かで不思議で情熱的な縄文土器が生まれ、
土偶が生まれたのではないか。
時間という人間が作り出したリズムに頼って暮らしていては、
自然のリズムと乖離が起きる。
今更暦のない暮らしには戻ることは出来ない。
いや、出来ないと思っているだけかもしれない。
時間の概念を持たない人たちも、アマゾンの奥地に行けば今も生きているし、
中国の山奥や、未だ文明との接触が薄い場所に行けば暮らしているとは思う。
でも、現実的ではない。
そう思うと、日本人が西洋の人たちに比べて自然との共鳴がうまいのは
暦というものが生活に根付くのが遅かったからではないかと。
強いていえば、縄文時代が1万年以上も続いたことが、
長い年月を経た今も良い影響を与えているのではないかともうが、
皆さんは、どう思われるだろうか。
コメントをお書きください
やまだ (月曜日, 18 5月 2015 22:05)
ストーンサークルは縄文人の暦だったのではないかという説があります。日の出日の入りの太陽の方向がどの石に当たるかで、大まかな暦を推定していたのではないかという。暦というのは、狩猟採集民である縄文人にとっても重要な情報だったはずです。特に定住生活を営む縄文人にとっては、食料が取れなくなる冬に向けて備蓄が必要となります。鮭の遡上の時期はいつ頃か、冬までにどれだけの堅果類の備蓄が必要か。移動生活を続けていた旧石器時代人とは違い、縄文人にはすでにある程度の暦の「縛り」が生じていたように思います。
もちろんそれは、農耕文明の暦の縛りとは比べようもないとは思います。精密な暦なしに農耕は成立しません。初期の文明社会では、暦を知る者が支配者として国を支配する階級になったのではという説もあります。
縄文時代というのは、いくつかの変化の節目があったにせよ、1万年以上の長きに渡って連綿と続いてきた文化を持つ時代です。当時の平均寿命から考えて20歳を一世代とすると、500世代にも渡る途方もない時間、彼らは一つの文化を繋いできたわけです。遠い遠い先祖の言い伝えを守り、先祖と同じ生活を続けていった彼らの時間の流れは、やはり悠久と呼ぶにふさわしいものだったのではないでしょうか。日進月歩の文明に住み、100年前の暮らしが今や博物館の中にしかない、そんな現代人から見るとこれはちょっと想像しがたいことです。
でも、それを想像してみるということが、大切なことなんでしょう。きっとそこから、人間の生き方についての何かの答えが生まれてくるんではないでしょうか。すべては想像することから始まるのだと、私は思います。
こんだあきこ (月曜日, 18 5月 2015 22:29)
やまださま
コメントの書き込みありがとうございます。
縄文カレンダーのことですね。おっしゃる通り、わたしもそう思います。
生きて行く上でのそのような肌感覚のカレンダーはあったと思います。
それは「暦」「カレンダー」というよりも暮らしの知恵のひとつとして、
自然界のサイクルを取り入れながら、彼らは生きていたのではないかなと思っています。
「あそこの木に花が咲いたから、そろそろ漁に出よう」「あの山の肌に馬の姿が出てきたから種まきをしよう」という感じでしょうか。これは遠野物語の中にある話ですが、
そのぐらいの感覚だったのでは、と。
西洋の暦とは明らかに違うものですね。わたしがこの文章で使用した「暦」という言葉は、まさにヨーロッパの支配者が人民を服従させるために暦をどのように使ったか、ということが機転になっています。その言う意味での「暦」の定着が遅かったからこそ、自然と共生しながら生きて行けたのではないか。あくまでも想像ですが。
やまださま、貴重なご意見を頂きまして、誠にありがとうございます。またいろいろ教えていただけましたら幸いです。