時間という概念
西洋でカレンダーが使われだしたのは、今から5000年ほど前だという。
カレンダー、つまり暦によって人間は今まで暮らしてきた。
今では生活のすべてが、その暦に支配されていると言っていい。
当たり前のことだけれど。
では、5000年前の日本列島はどうだったのだろう。
時は、縄文時代中期。
八ヶ岳山麓では、縄文のビーナスが誕生し、
仮面の女神がシャーマンの手伝いをしながら、人々の祈りをその身に受けていた。
また、新潟では火焔土器が作られ、炎の文化が大切にされていた。
ここ日本列島には暦の感覚が生まれていなかったのではないか。
暦ということは、「時間」ということなのだが、
そんなものを気にすることのない人々の営みが、縄文時代の中期にあったのではないか。
だから、あの豊かで不思議で情熱的な縄文土器が生まれ、
土偶が生まれたのではないか。
時間という人間が作り出したリズムに頼って暮らしていては、
自然のリズムと乖離が起きる。
今更暦のない暮らしには戻ることは出来ない。
いや、出来ないと思っているだけかもしれない。
時間の概念を持たない人たちも、アマゾンの奥地に行けば今も生きているし、
中国の山奥や、未だ文明との接触が薄い場所に行けば暮らしているとは思う。
でも、現実的ではない。
そう思うと、日本人が西洋の人たちに比べて自然との共鳴がうまいのは
暦というものが生活に根付くのが遅かったからではないかと。
強いていえば、縄文時代が1万年以上も続いたことが、
長い年月を経た今も良い影響を与えているのではないかともうが、
皆さんは、どう思われるだろうか。
半ば押し掛ける形で、研究室にお邪魔するようになった私。
そこの主である武藤先生は、学生時代に考古学、それも縄文時代を専攻していらっしゃいましたが、
その後、文化人類学や民俗学など、人間にまつわる学問を多角的に学ばれた方。
ですから、遺物ひとつを取ってみても、考古学的な見地はもちろんのこと、
それを基本に様々な角度からモノを見ていらっしゃるのです。
偶然とは言え、私のような素人には、考古学ど真ん中の方よりも、
このような視点をお持ちの先生のほうが、
遺物に対してオープンな考え方をする意味で、最適だったわけです。
そこで、土偶です。
先生は
「基本を押さえて、あとは、自由に書いたらどうだろうか」
とアドバイスを下さいました。
考古学素人の私だからこそ書ける遺物の捉え方や、感じ方があると。
学者の先生方は、様々な制約があり、伝えたくても伝えられない事情をお持ちです。
そこを門外漢の私は軽々と飛び越えて行ける!
また、飛び超えて読者の皆さんに伝えることこそが、私の役割なのだと、
私自身、考えたのです。
と、もっともらしいことを書きましたが、
すべては土偶の面白さ、かわいさ、縄文時代に生きた人々の姿を知ってもらいたい、
ただただそれだけだったのですが。
武藤先生との出会いをきっかけに、大変多くの専門家の方々とご縁を頂くことが出来ました。
専門家が集まる考古学の勉強会に「あたし、場違いだよね」と思いながら出席することも多々ありました。
すべては、土偶の本を出版するため。
大げさにいえば
「あたし、土偶の代弁者になる!」
という誠に勝手な意気込みで、先の見えない中を進んでいたのです。
ありがたいことに、先生方は皆さん応援して下さいました。
土偶が大好きで、大好きで、わけもわからず突進してくるアラフォー女性を、
面白く思って下さったのかもしれませ。
ぶっちゃけ、そばで見ていたら、少し変わった人に見えていたはずですしね(笑)
しかし、そのおかげで、多くの人たちの協力の末に、めでたく出版にこぎ着けることが出来ました。
「土偶って遮光器土偶しか知らなかったけれど、
こんなに面白い子がいっぱいいるんやねー」
「学生時代に、この本みたいに紹介してくれてたら、
もっと楽しく勉強ができたのに」
「うちの小学校の図書館では、一番人気の本です」
など、たくさんの反響を頂きました。
また、この本がきっかけになって、新たな出会いが生まれ続けています。
これも土偶が繋いだ縁。
数千年も昔の人たちが、愛情込めて作った土偶が、
現代の私に新たな人の縁を繋いでくれるなんて、なんてロマンチックなんでしょう。
人は、こうして繋がって行くのだといったら、大げさでしょうか。
こうして私は土偶に出会い、恋し、どっぷりとその世界にはまって、
自分の人生が大きくうねりをあげながら変化し、想いもよらぬ場所に運ばれています。
そして、ここにコラムを書いている訳です。
ああ、
土偶、バンザイ!
はじめまして。
土偶の伝道師、譽田亜紀子(こんだあきこ)です(自分で言っちゃってますが)
このホームページにおいでくださり、ありがとうございます。
ここで初めてみなさんにお目にかかりますので、まずは少し私のお話を。
私はフリーのライターを生業としています。
しかしながら、「考古学」を専門にしているライターではありません。そんな人はまれです。
美味しいお店の紹介記事も書けば、企業の会社案内も作ります。
依頼があれば、何でも請け負うジャンルフリーのライターです。
そのライターがなぜ、よりにもよって「土偶」の本を出すことになったのか。
それは
「この面白さを知らないなんて、人生を損している!」
この一言に尽きます。
私もこんな風になるまでは、土偶に興味など、これっぽっちも持っていませんでした。
せいぜい知っているのは土偶界のドン、遮光器土偶ぐらい。
それが、取材先で出会った観音寺本馬遺跡土偶が持っていた、
素朴な中にあるユーモアや脱力感、
そこはかとなく漂う優しい雰囲気に心を鷲掴みにされてしまったのです。
その造形は私が今まで持っていた(といっても、たいしたものは持っていませんが)土偶感を
根底から覆し、その上、覆すだけでは飽き足らず、
土偶業界にズブズブとハマらすほどの強烈なインパクトだったのです。
これをきっかけにインターネットや書籍で土偶を調べ、
その土偶が生まれた縄文時代についても、いろいろ調べるようになりました。
すると、おもしろ土偶が、出るは、出るは。
そうなると、人というのは不思議なもので、聞かれてもいないのに、
周りの人間に土偶の話をしまくるようになりました。
はっきり言って、変人扱い(笑)
それでも私は、話さずにはいられなかったのです。
そうこうしているうちに2年ほど月日は経っていたある日、
これは、土偶の思し召しなのでしょうか。
後に監修をしていただくことになる奈良女子大学教授の武藤康弘先生に出会ったのです。
当時私は、通信教育の大学に通っていて、受講した考古学の先生が、武藤先生だったのです。
授業を受けた私は、この先生しかいないと、授業が終わるや否や、名刺を持って駆け寄り
「土偶の本を出したいんです。先生、研究室に通っても良いですか」
と、まくしたてました。
事情がよくわからず、唖然とする先生をよそに、
私は先生の研究室に通うことを勝手に決めてしまったのです。
つづく……